会員 石川 愼二 1. はじめに 放送大学 茨城同窓会主催の“第7回海外研修 ベトナム世界遺産を巡る6日間の旅(2015/8/25-30)”に参加した。参加人数20名である。 私は5年前にホーチミンへ立ち寄ったことがある。今回はハノイを中心とする北半分の旅であった。流石、放送大学同窓会の企画は学術的内容が充実している。私の視線は、歴史、文化、政治などに興味があり、その視点から研修旅行記を述べる。 (旅行の日程は添付ファイル参考) 2.歴史・文化の視点 紀元前3世紀末アンズオンヴォン(安陽王)の登場からといわれる。紀元前111年漢王朝の侵攻があり文字、農耕を伝えた。 ●ベトナム語 ベトナム語はローマ字の上に記号があり我々には理解しづらい言葉である。しかし、よく眺めてみると、それらは漢字で書くことが出来、何となく納得できる。たとえばベトナムは越南、ハノイは河内と書く。また李太祖はリタイトー、黎朝の黎はレイであり、阮はグエンという。 ●思想・宗教 思想、宗教についての驚きは新たである。ベトナムの宗教は仏教、儒教、道教である。これらはベトナム人の80%以上といわれている。ちなみに、日本の儒教については宗教ではなく思想精神である。にもかかわらず、私達が泊まったフエ(Hue)のCentury Hotel 正面玄関の万国旗は日米英世界各国20か国の旗が高々と翻っていた。しかしそこに「五星紅旗」は無かった。 現在のベトナム人は中国との関係を良く思っていないように見受けられる。この問題は国境問題にあるのではないかと思う。また大変親日的国である。この様にベトナム語は1000年の中国の影響を無視することは出来ない。 ●ホー・チ・ミン ホー・チ・ミンはバックホー(ホーおじさん)といわれ尊崇されている。バック(bac)とは父兄弟の長男をbacという。つまり「長幼の序」である。男の世界である。これは儒教の朱子学ではないかと思う。 ●ミーソンの遺跡群 今回の旅で印象に残った一つは世界文化遺産ミーソン(My Son)の遺跡群である。この遺跡は1500年前に建設された煉瓦造りの祠堂群で、フランス人の学者により再発見された。その20年後ベトコンが活動拠点をミーソンに移し米軍が空爆しため71あるチャンパ遺跡群のうち20だけがなんとか原形を保っている。ここでも戦争の牙あとが垣間見える。 この世界文化遺産はカンボジアのアンコールワット、タイのアユタヤ、ミヤンマーのバガンに匹敵する古代南アジアの聖地である。 フエ(Hue)のグエン(阮)朝は1802年~1945年まで13代にわたって続いた。約600m四方の王宮は1833年に完成し、ベトナム戦争での荒廃がその後部分的に復旧しつつある。 この王宮内の見学はかなり疲れたが、9人乗りの電動カートが用意され、疲れはほどほどに収まった。 ●宮廷料理 夕食の宮廷音楽を聴きながらの宮廷料理はその味を楽しむことが出来なかった。この私がどういう訳か皇帝に祭り上げられ、頭に皇帝の冠、さらに金色の皇帝の装束、体が硬直してリラックスできない状況であった。 ●日本とベトナムの歴史的関係 ベトナムのホイアン(Hoi An)には、朱印船が何度も寄港し、東南アジア特産品である香木、砂糖、生糸などを買い付けていた。そこには日本人町があり商業活動を行っていたのである。そこに堺出身の商人具足の墓が残っている。 墓石には400年近く前の寛永6年(1629年)か元禄2年(1689年)を示す「己巳年」とあった。 ホイアンの人々はこの日本人の墓を何百年も大事に守ってくれた。このホイアンで奇しくも日越友好のお祭に日本人女性が浴衣姿で参加していた。 ●ベトナムの歴史の総括 以上、ベトナムの歴史を私なりに総括してみる。 紀元前111年前漢(中国)はベトナム北部を支配した。それから2000年くらい中国文化、政治経済の影響を良くも悪くも強く受け続けた。 その後、1893年フランスの支配下の植民地になった。現在のベトナムローマ字は漢字文化の中にフランス語文化が入り込み100年の間に現在のベトナム語が確立したのだろうと考える。 日本は2~3年間の進駐、アメリカは10年間の戦争。ベトナムの基盤は中国とフランスの影響が大変大きかったと考えざるをえない。 2.政治経済の視点 ベトナムは中国の共産党一党独裁政治に似ている。しかしドイモイ(刷新)政策により近隣のアセアン諸国との協調関係にあり、社会主義資本主義の混じった複雑な状況にある。しかしこの変化は貧富の差が拡大して社会問題になりつつある。これらのことは我が国を含む資本主義のネガティヴな問題になっている。まして中国を初めとする共産党一党独裁国家はこの富裕層と貧困層の確執の問題は大問題になっていくだろう。 ●西側諸国との関係が更に密に 私の仕事(靴履物)から思うとますます発展するのではないかと思われる。アメリカのナイキはほとんどベトナム製である。また皮革製の靴も結構多い。つまり縫製などのテクノロジーが優秀だということだ。そしてハイテク産業の進出は顕著と受け止めた。 ホテルのブレックファーストでパナソニックの社員にお目に掛かった。そこにフィリッピンの社員が2人同席していた。南アジアの労働市場は複雑に横にも移動しいている。 ●自動車とバイク ベトナムの道路はバイクが主流だ。市内の道路はバイク集団が流れ抜ける。車の前後或いは横斜めをすれすれに行き交う。しかしこの6日間交通事故に遭遇しなかったし事故も見なかった。横断歩道の前ではバイクも車も一時停止をしない。私が自動車運転免許証をとった50年前の日本の風景と同じだ。 1960年代の日本はホンダのスーパーカブなどのバイクが主流でまだ乗用車は一般的ではなかった。そういった事を思い出すと、今のベトナムを笑うことなどは出来ないのではないだろうか。 ベトナムの数十年後は、バイクから車へのモータリゼーションが想像される。その変化により、ダナンのショッピングセンターもバイクの駐車場ではなく車の駐車場が必要になってくる日も遠くないと思われる。その流れは、日米の交通、流通システム、インフラ見ればベトナムの近未来を想像するのは難くない。それに伴いスーパー、ショッピングモール、コンビニ、100円ショップの出現は必至であろう。それらによりベトナムの日常生活、経済物流が近代的になるのは想像に難くない。 駐車場のない商店街、市場はシャッター通りになるであろう事は想像が出来る。 ●ベトナムの産業 私の職業は靴・履き物の卸業である。それだけに靴産業には興味がある。ナイキブランドのスニーカーはアメリカで生まれで、アデダスと共に世界のトップブランドである。そのナイキの殆どは現在"made in Vietnam"である。私が今履いているアシックスも"made in Vietnam"である。たしかに縫製などのテクノロジーは一流である。更に革製の靴も沢山輸出している。 ホテルの朝食で3人の男性に出会った。日本人とフィリピン人だ。この3人はベトナムとフィリピンのパナソニックの工場で働いているということだ。労働者の技術的レベルは南アジアの中でトップクラスといわれている。 ●農産物について 驚いたことにコーヒーの輸出がブラジルに次いで2番目だとは知らなかった。たしかに美味しかった。スーパーでトップブランドの”G7"を”爆買い”してしまった。 ベトナムの米の輸出は年間800万トンの輸出である。これはインドに次いで2番目であるという。 現地添乗員のベトナム人はベトナムの米作は3毛作だと言った。「三毛作ではなく更に、日本では”二期作”はあるが、”3期作”はない。」と私がちらっとサゼッションしたら、彼は即座に”3期作”と訂正した。流石日本通である。 米はインデカ米とジャポニカ米がある。ベトナムはインデカ米である。このベトナムのインデカ米はあのホー(ベトナムうどん)と春巻きの皮ノ原料である。作り方によっては大変美味しい。 ●この旅で邂逅した外国人 その数実に15ヶ国になった。中国、韓国、フィリッピン、カンボジア、スリランカ、インド、ウクライナ、ベルギー、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド。シンガポール。 <ベトナム基礎データ> 1)人口 9,250万人(2014年)世界14位(日本12,700万人 世界10位) 2)面積 32万9,241平方km世界65位 (日本377,972平方㎞世界62位) 3)主要産業 農林水産業、鉱業、軽工業 4)GDP 1,878億US$世界56位 (日本4,616.3410億単位10億US$、世界3位) 5)一人あたりGDP 2,073 US$世界136位 (日本 36,331.74 US$世界27位) 参考URL (寄稿2015/9/8受) (葛貫代理投稿 2015/10/12) |